「減築」ということ

『らぴど』 財団法人日本建築センター 2002.04

旧東ドイツのライネフエルデにおける団地再生プロジェクトから、もはや単に、既存建築物を解体、新築するといった従来の手法ではなく、最小の資源を用い、大胆な再利用、再生、整理といった手法への転換が求められているのではないだろうか。

旧東ドイツのライネフエルデヘの視察

先年、旧東ドイツの小都市ライネフエルデを訪れた。旧東欧圏には60年代から70年代に作られた7000万戸のコンクリートパネル住宅があり、そこにいまも1億7000万の人々が住んでいること、ソビエト崩壊後、その一部は居住者の流出による無人化や地域経済の疲弊等から維持管理ができず崩壊のおそれがあり、又、近い将来7000万戸すべてがそうした危機を迎えるであろうこと-ライネフエルデの団地再生プロジェクトが、そうした問題を検討する会議の席で浮上、きわめて見事に問題を片付けた事例であると評価されたということを聞いていた。それらを実際に見てみたいと強く考えたのがツアーに参加した動機であった。
ツアーには多彩な職業に属する人々が各々の動機によって参加していた。片付けること、整えること、とでもいえるこうした再生への共通の興味は、ここ半世紀の経験がその基底にあるのだろう。この国の建築の寿命のあきれるほどの短さ、それが我々にきわめて深刻な「被害」を与えてきたことを私は実感している。創作者にとって、歴史のなかで作られ、評価された建築を見ることほど大切な体験はないし、これらを訪ね、体験するすべを失うことは、自作の根拠を極めて測りにくくする。国内の近代建築の解体現場に何度となく立会い、近年のヨーロッパ、アメリカの近代建築保全の動向を見ながら、そうした感慨を強くもつ者として、団地という、いわば署名のついた名建築ではない、しかし時代が産み出したもう一つの建築群の命運にも同様の興味をおぼえたのである。

ライネフ工ルデにおける「減築」を用いた団地再生プロジ工クト

訪れたライネフエルデは評判に違わず実に見事な再生事例であった。市の人口25000人の半数を抱える住宅団地、ここを徹底した分析に基づき再生するためのマスタープランは、人口流出をくいとめる工場団地の新設等市域全体の計画と連動、思いきった手法によって大胆に実行されていた。住棟単位の個々のプロジェクトはコンペティション等によって提案、検討され、再生は、断熱改修、バルコニーの付設、一階住戸への専用庭の設置にとどまらず、片廊下型やメゾネットヘの改修、エレベーターの付設など多彩に行われていた。中でも注目したのは、マスタープランにもとづく大胆な戸数減の計画であった。住棟そのものの解体による公園、オープンスペース、駐車場の整備、住棟上部の撤去による戸数減、なかには層の住居の上部層を撤去平屋の事務所棟に変更した例やメートルはあろうかという壁のように長い住棟の中央部を住戸分の幅で撤去、ビスタを確保し、街路を通した大胆な例さえあった。 
「減築」という聞きなれぬ決断がひとつの選択として当然の合理を持つものとしてここにはあったし、そしてそれらは建築技術としてもきわめて質の高いものと考えることのできるものであった。 
この時、アムステルダム、ロンドン等の団地改修の現場をも訪れた。ここでも多くのプロジェクトは思いきった「減築」をともなうものであつた。これらのプロジェクトは、決断を先送りし無人の住棟を持ちつづけることで地域が疲弊し活力を失っていくことによる揖失、負担と、再度これらを既存のストックとして評価した上で新たなマスタープランを策定、金をかけ適正規模で高質な地域として再生することの負担とを比較、市民に説明、合意を得、行動に移しているということが理解できた。そしてこれらのプロジェクトは社会ストックの将来にわたる最も損失の少ない適正化の選択であること、だから投じられる資金は公費、税金であり、居住者の負担はまったくないということも。

日本における建て替えの現状  

この国の社会も近々こうした状況に近いものとなりそうである。すでに住宅戸数は大幅に世帯数を超えているし、少子化のスピードは予測をこえている。そのうえ温暖化ガスの排出削減という地球規模の問題は建設規模の大幅の縮小を求めてさえいる。私はそうした状況であるというメッセージヘの合意はすでに広く市民共通のものとなっているのではないかと思う。だから、市民の消費への無関心、不熱心は必ずしも将来の生活への不安、不景気への不安によるものではなく、もっとグローバルな社会状況を脳裏に置いた上の、のんきな消費そのものへの根本的な疑いによるのではないかと思う。そうだとすればこうした市民の賢さに比し専門家の作るプロジェクトにはその賢さ、透明性と説得性、明確さが見えないといえるのではないか。 
先日訪れた近郊の公団賃貸団地建て替えの現場で呆然とするような状況をみた。従前の居住者には建て替えに伴って百数十万ほどの保証金が各戸にでる。比較的豊かな居住者の多くは、それを「元手」に三倍にはねあがる家賃を嫌い、戸建て住宅や民間分譲マンションに転居してしまう。高齢者、高齢の家族を抱える世帯は世帯分離という手法により高齢者を分離、高齢者だけが家賃の減免という優遇を受け、現状に近い家賃で建て替えられた新居に入る。もちろんこのことを単純にけしからんというわけではないが、すくなくともこの差額は税金で補填されることとなる。そして彼等といっしょに暮らしていた息子たち若年層はやむなく転出する。そして彼らに我慢を強いることによって作られ供給されるはずであった大量の住まい、そこへの新たな居住の需要はない。 
ここでの建て替えという解体新築のプログラムは明らかに破綻している。にもかかわらず、思考は停止したまま新たな住棟の解体工事はしゅくしゅくと進行している。膨大な金をかけ目算のないむなしい空地つくりをしつつ、その処理に頭を抱えている。これはだれかれの責任といった問題ではないのだろう。われわれの社会の問題であり、われわれ一人一人の責任と任務の問題であると思う。われわれの思考は多かれ少なかれこうした状況の中にあり、こうした性向を結果としてもっている。

サステイナビリティという考え方と「減築」
 
思えば整える、片付けるということは、まったく新たに作ることの単純さを超えた創作的行為ではないだろうか。サステイナビリティという考え方がある。持続可能性と翻訳されるこれは、デユーラビリティと対をなす考え方であるという。後者が単純な永続、不変を意味する言葉であるのに対し、前者は永続、不変でないものを維持し支え直しながら使い続けることを意味するのだそうだ。サステイナブルソサエティ、サステイナブルデベロップメントという言葉はそうしたものとして始めて理解可能である。最小の資源による持続、こうした深刻な認識のうえの提案だけが、多分今日の社会が求めるものではないか。機能更新、リユース等をも含む大胆な既存ストックの再利用、再生、場合によっては大胆な整理の提案が求められていると思う。専門家、技術者はそのパズルを解いてみせることを期待されているのではないか。ライネフエルデにみる「減築」はそうした考え方の必然を教えている。

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