住宅を考える、ゼロエネルギー住宅を作る。

『ニューエネルギー』No.168 連載コラム第4回 社団法人 都市エネルギー協会 2010.04

 緑にあふれた環境のなか、さんさんと陽の光を受けて穏やかな日々をすごしたい。そうした我が家であってほしい、というのは誰もが望むことでしょう。そしてできればそれが地球にとっても負担の少ないものであってくれればそれほどよいことは無いでしょう。

 では、どうしてそれは難しいのでしょう。最近建つ家々の敷地は狭く車一台を置くと残りは隣の家との間の少しの隙間だけ、と言う例も少なくありません。立ち木一本も無い、そんな家々が続く閑散とした味気ない町並みも決して珍しくは無いのです。土地も家もそのどちらもを自ら買う、そしてそのローンを払い続ける、そうであれば家は一世代で払うことのできるその家の所得にあった物となるしかありません。先ほどの光景はその結果としての光景なのでしょう。果たしてその常識はほんとうに真っ当なことなのでしょうか。

 家の性能は近年比較的向上し必ずしも一世代でそれを使い切る、つまり消費し終わるほどのものでなくなってきてもいるのです。数十年で耐久性がなくなる、そんなことはありません。高断熱高気密な住宅は以前の数倍の寿命があると考えていいのです。一時30年程と言われていたこの国の住宅寿命は今日その二倍近くに達しつつあり今後それは急速に向上すると考えられます。性能の向上は家の寿命を大きく伸ばしつつあるのです。

 しかも一方で、既存住宅は大量に余っています。全戸数の13%が空き家という現状もあるのです。(住宅・土地統計調査結果 2008年10月 総務省調査結果)少子化の今後、この傾向もまた急速に進行するに違いありません。これから私たちの住まいはどうなっていくのでしょうか。一方で満足のいかない狭小住宅が作られ売られていく、もう一方では空き家が増大し果ては廃墟化する、なんとなく考えたくは無い状況が浮かびます。

 住宅は誰のものでしょう。もちろんそれは住み手のものです。しかし住宅の寿命が大きく伸び数世代の使用に十分耐えるものとなったときそれは「私のもの」から「私たちのもの」に大きく変わるはずだ、と私は思うのです。「私たち」とは昔のように祖父、父、子供と繋ぐ数世代の家族のこともあるでしょう。またそれは売買などにより住み手を変えまったく縁の無い人により使い続けられていくこともあるでしょう。そしてそうであれば、住まい自体の所有も個人によるもののほかに「社会」がそれを所有する形も当然あっておかしくは無いはずです。住まいは所有するものから使うものへと変化するのです。本来、住宅は社会のものとして人々により使い続けられていくか、または、また売買などにより流通し手渡され世代をまたぎ使い続けら得ていくものになるべきものであったのであろう。そう考えるのです。

 戦後の家の無い時代に作られた住宅はその多くがいかにも粗悪で満足のいかないものでした。また急速に進む産業化がたくさんの人々を引き寄せる、そのため大量に供給された団地という共有されるべき住宅群も住宅の質という面では大いに問題のあるものでもありました。これ等の事柄を根拠とした持ち家指向はハウスメーカーという大量生産システムを生み、この国独特の住宅政策を支え各自が各世代でひとつずつ住宅を所有する「持ち家による住宅」という社会を作ったのでしょう。そしてそれは産業としての仕組みとしてこの国の経済を支えたのでしょう。その分私たちは所得の多くをそれに割くことになったのです。家のために、ローンのために働く、そうした社会です。余談ではありますが今日の私たちを取り巻く景観はその結果として現われたものでもあります。変化の激しいそして乱雑といっていい景観です。

 サステイナブルな社会と言われます。サステイナブルとはどんなことをいうのでしょうか。又聞きですが、これはブルントラントというデンマークの首相がヨーロッパ議会で20世紀末に始めて使った言葉のようです。新しい言葉の使い方にはそれまでに無い字義をそれに込めたいという意思があるのです。この言葉は普通「持続可能」と翻訳されます。「持続可能」とは?果たしてどんなことをいうのでしょう。サステイナブルな生き方、社会とは。私の理解をお伝えしましょう。

 それはとかく「持続可能」から思いがちな「永遠不滅」でいつまでも変化しないもの、とまったく正反対の意味を持つもののようです。つまり「サステイナブル」とは手間をかけなおし、維持し、取替え使い続ける、それをいう、と言うことなのです。確かに永遠不滅なものはたくさんの資源を使うことになるはずです。そしてそうしたところでそれが達成の難しいものであることは絶対的権力を持っていた過去の王の墳墓や宮殿、神殿などの建造物が教えるところです。

 果たしてそれでは「サステイナブル」な建造物とはたとえばどんなものをいうのでしょう。私は最も典型的な事例としてこの日本の建築、特にその中でも「茶室」をあげたいと思うのです。この国の木造建築はまさに手間をかけなおし、維持し、取替え使い続けられてきたのです。わが国が誇る国宝の「茶室」たとえば京都大山崎の「待庵」犬山の「如庵」などを見学するたびに思います。「この建築を不動産鑑定士に今、査定させたらどんな評価をするだろうか」と。ささやかな細い杉や竹の柱、薄い土壁、桧やヒバを薄く裂いた板葺きの屋根、まさに力を込めて数人で押せば倒れてしまうのではないか、と思わせるものです。室町から400年、これが今日もわれわれの前にあり、しかもわれわれの共通の宝、「国宝」としてここにある。これこそが奇跡であり「サステイナブル」なことであるのではないかと思うのです。「茶室」はその極にあるものです。多くの趣味人によりそれが絶えず持続されたのです。実は多くの日本の木造住居も多かれ少なかれ同じように手間をかけなおし、維持し、取替え使い続けられてきたこともあらためて気付く事実なのでしょう。

 先日、坂倉準三さんが設計した戦前の木造住宅が軽井沢に移築されレストランとして再生しました。前川國男さんの木造の自宅は解体の後主要な材が保管されました。それは今日小金井の江戸東京建物園に再建されています。解体し移築することが可能であること、日本の木造建築は実にユニークで精度の高い工夫に満ちたものであるのです。こうした建築技術を持つ国はほかにはそう見当たりません。今日大工さんが一本一本の材の仕口を工夫し墨付けし加工し組み上げるという手順はプレカットという自動化に置き換えられています。が、そこで考えられ行われていることはある意味で連続したものといえるのです。解体、増築、減築、改修、この国の木造建築はこれ等のどれにも対応可能なものとしていまも存在します。私が建築の設計を仕事とし特に木造の建築を手がけるとき思うことはこのことです。

 長く合理に支えられ工夫を重ねてきた木造建築の知恵はこれから生き続けるに違いありません。むしろこれからこれを発展させ、より合理的で活用可能なものとしていくことこそが求められると思うのです。

 今日私たちが取り組むエネルギー使用量のより少ない建築の姿は、第一にそれが木造建築であること、なぜならCO2を発生しない建築材料はほかに存在しないから、解体、移築、増築、減築など状況にあわせ変化することが可能だから、にあります。第二にそれは断熱や気密に優れていることが求められます。この宿題は実は比較的最近の課題であるのです。特に温暖といわれる地域に多くの人々が住むこの国では夏の通風を旨とする伝統にもよってこれを特に問題とせずに過ごしてきたのです。しかし住宅が消費する石油、電力の多くがこうした住宅の暖房に使われていることの問題が顕在化する中で今日ではこれが最大のテーマとなっているのです。

 そうした時代の風を受けて様々な材料や工法が現われ効果を挙げつつあります。こうした技術により私たちが作る「木造ドミノ住宅」は一切の石油、電力を使わず屋根に降り注ぐ太陽エネルギーだけで40坪の室内を快適な室温に保っています。なんと寒い2月の曇天続きの朝においても室温は17度を下ることがない、との報告を受けています。私は温暖地域でのゼロエネルギー住宅の実現はもうそこにある、と考えています。

 もうひとつの、しかし最大の宿題は大量に存在する既存住宅をいかにゼロエネルギー住宅とするか、にかかっています。5000万戸を優に超える住宅の多くは高断熱高気密住宅ではありません。光熱費、つまり大量のエネルギー消費を前提とした住宅です。これ等の改修こそおおきな課題であることはいうまでもありません。ただしこれが不可能かといえば決してそうではありません。先ほどの移築改築の例の通りこの国の木造建築は実に改修に適したシステムを持つものであるのです。外壁を一旦取り断熱を施す、天井に断熱材を敷き詰める、窓にもう一枚の窓を付加する、など様々な手だてにより既存住宅はエネルギー消費の少ない快適な住宅として甦るでしょう。

 幸い国においても住宅改修に取り組む姿勢を見せ始めています。エコポイント制度を住宅の改修に広げるというものです。こうした施策が幅の広いものとなり効果をあげることが期待されます。スイスなどヨーロッパ諸国は進んでこうした問題に取り組んでいるといいます。

 私たちの祖先はこの豊かな環境とともに穏やかに暮らしていたはずです。明治期に日本を訪れた外国人の多くが自然の豊かな景観と質素ではあるが清潔で慎み深い人々に感心しています。戦後の焼け野が原を出発点として今日に至る景観は震災や戦災でまったく昔日の風景の記憶を欠いたところに現われたものです。江戸から続き震災まで存在していた東京の景観は実に質の高いものであった、と聞きます。使いる付けることによる豊かな景観、それは言うまでも無く一つ一つの建築の集積によるのでありそれらがいかに注意深く考えられたものであるかによります。もう一度この国の住いを考え、風景を考える、今はいい機会なのかもしれません。

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